「父・前田千寸を偲ぶ」より


「前田千寸展」に寄せて     沼津市庄司美術館 荻生 昌平

 私は第二次大戦終戦の翌年沼津中学最後の中学生をめざして受験をした。口頭質問には 三人づつが呼ばれ会場に入ると三人の先生が並んでいた。中でも小柄でひげを蓄えた上品な老年の先生が印象的であった。「香貫山が春になるとピンクに染まるのを知っているか」「知りません昨年空襲でチョーチン行列のようになりましたが・・・」「あれは桜が咲いているのだ。よく観察をすると良い」美術の先生らしい。これが前田先生との出会いであった。同級生となった芝章君は同校の校長先生のご子息であり庭先でキャッチボールを良くした。ある日隣の住人は前田先生であることを知って当時日本画を習っていたので講師の前田先生宅を訪問することにした。古びた床の間の前に小柄の先生と先生よりもなお小柄なひな奥様が雛人形のように並んで座っておられた姿が思い出される。
 戦後の沼津中学は自由な風潮が渦巻く中で 先生方は活気あふれアグレッシブであり生徒たちも個性豊かな勝手連に育ちそれぞれが自分の手で道を切り開き個性あふれる人材を多く輩出する男臭い蛮カラな校風であったと思う。
 昭和三十四年頃当時版画をしていた私に、「日本色彩文化史」発刊記念式典の際に記念品芹澤_介作の染布の箱書きを版画でと先生より声が掛かり驚いた。
 今回の美術館での「前田千寸展」に先生との深い因縁と感じている。先生のご長男前田薫氏は現在九十歳であり熱海市の中銀マンションに一人住いをしている。最近お手持ちの全資料約千五百点を美術館にご寄贈を賜った。最も敬愛する父親に対し仕事の関係で沼津の地を離れていたために充分に意を尽くせなかった長年の思いを、手持ちの資料の整理と偉業を世に再度問いたいと言う願いと自責の念を私は強く感じた。
  薫氏とは美術館員が既知の間柄にあり、そして美術館としての重要な事業に発展した。東京香陵会幹事芝 章君を仲立ちに薫氏との交流が生まれ多くの協力者を得てこの度の前田千寸展を開催するにあたりご協力頂いた関係各位 に心より感謝申し上げます。約一年間の準備期間では意を尽く事は出来ませんが、今後も継続掘り下げたいと念願しております。先生の日本画作品に接する機会が少ない現状ですが、多くの方に協賛出品を頂きました。作品を通 してほのぼのとした先生のお人柄にも触れていただければ幸いです。



 家族の一人から見た前田千寸         長男 前田 薫

 私の生まれ育った駿東郡下香貫八重原の家の向こう三軒両隣は、後に(大正十年頃)沼津市に併合されて沼津市長を果 たされた森田泰治郎氏の大邸宅とその一族であろう森田家で、よそもの他家者はその借家の2〜3軒だけであり、気弱で病弱だった私は小学3年の時、作文「私の尊敬する人」と言う名題に迷いなく父前田千寸を書き、担任の松永先生に青山校長立会いで呼び出され、質問を受けたことが強烈な印象として残っている。後年母が父兄会で先生から大変望ましい家庭と褒められたことを話していた。
 近隣に親戚が一軒もない一家四人(父・母・姉・私)の幼い生活の中で気弱な私には尊敬するのは父だけしかなかった。しかし九十歳になろうと言う現在、私は少なくとも最も尊敬と愛着を痛感している前田千寸が父であることが誠に有り難い。
 父は本質的に実に闊達であり、自由であり、私の印象では多分に最後まで土佐人に感ずる根っ子が脈々と流れていた様に思われる。
 小学校低学年の時から沼中3年生まで何度も父のお伴で行った当時の香美郡 在所村たにあい谷相と言う段畠農業の山村は殆どが親戚 縁者のようだった。 縁者の何人かがサハチ料理で飲みながら聞く話の中で大変腕白の先頭に立った千寸(友達は「ユキ」と呼んでいた)はたにあい谷相小学校で神童等と言われていたと言う。
 昭和15年私は当時最前線戦場であった南支那へ陸軍主計少尉として出発前、お別 れの気持ちで父の故郷谷相を訪れた折、多分村の助役であった父の従兄弟の案内で、村内の何軒かに挨拶、たにあい谷相小学校講堂に掲げられた絵を見た。父が小学校卒業の時描いて寄贈したと言う見事な黒板大の風景画であった。成る程、遥々土佐の山林農村から東京美術学校を目指すと言う当時で言えばとんでもない我侭を通 したのは“之か”と合点がいく思いであった。
  父の生年前後、土佐は板垣退助の自由民権運動に湧いていた頃で、教育もあのような奥深い山村にまで早くから浸透し、元来が血の気の多い高知の人間は多くが大言壮語して、天下を論じ夢を持ち中央に、都にと動いたと思われる。
 父は、美術学校を卒業後山梨の日川、群馬の館林、そして大正元年9月沼津中学砂崎校長の時から図画、国語の教師として勤務し沼津を動くことはなかった。沼津の風土と、土佐とは違う暖かい民情に接し定住を決めたと思う。しかし本籍土佐を変えようとはしなかった。そのため私は沼津に育ちながら中学、高校大学共に、高知県人、平民、前田薫と卒業証書には称われ兵役も四国11師団高知歩兵第44連隊入営で日本敗戦後まで高知県民であった。
 父の心の奥深く根付いていた子供の時からのあくまで自由で他者の人格を認めた姿勢・考え方は終始変わらず、一家四人の生活は全く穏やかそのものでした。母や私達姉弟に“オイ”とか“お前”とか呼ぶことなく名前か“きみ君”と言う言い方であり、私達はごく当たり前の形として受け止めていたが当時としては正に珍しかったのではないかと思います。
 日川中学また館林中学の卒業生、勿論沼津中学の卒業生、沼中の先生方等実に多くの方々が訪問して来られ、来客数の多い家で、夕方来客があると姉と夕食のご馳走がなくなると嘆いたことも多かったこと等記憶も鮮明に残っています。父は2〜3合の酒を飲みながらの雰囲気が好きでこれも土佐の風習が根付いている様に思います。盛り上がれば酒席が長引き、酒を買いに私が走ったり燗のついた徳利を何回も座敷へ運んだことも数多くありました。
 大正時代の父は、学生たちの人間教育に真剣に取り組みながら帝展を目指した画業にも熱心であったと思いますが、関東大震災の後頃からは、美校時代からの念願のテーマ(色彩 を一つの文化として体系づける研究)を決意したのだと思いますが、夜は古い文献を次々と読み続け要点をカード記録し何千か何万かの覚えカードが次々とたくわえられていくこと、昼家に居るときは台所に数個の鍋を並べて文献からの夥しい量 の植物原料を拡げてテストピースの絹布を自分の納得する色に染め上げるまで試考錯誤を繰り消す姿であった。
 その情熱を注ぎ込む姿が井上靖氏の“黯い潮”の中にそのまま活写されている。そしてまた大正時代の沼中生の対応は芹沢光治良氏の“人間の運命”の中に縷々そのままに多く語られておりその息子である私が戦地に長く駐留していることも芹沢さんは触れている。                        
  土佐の深い山の中の農家の生まれ育ちの故か父は、父親を早く失っているが、大変健康で食べ物の好き嫌いが殆どなく、美校の学生時代から所謂苦学生で、オカラに塩をかけた食事だけで3日過ごした話など、よほどシンドかったのだろうが、亦ウマイ物好きであり殊にスキ焼きや、鰻は大好物であった。土曜日夕食は、しばしばスキ焼きを一家四人で食べた。その時は必ず初めから父がまず牛脂を鍋にとって油を出し肉を拡げて後、野菜を入れ調味を整える父の様式での仕立てであった。上本町の古安肉店の上得意さんであったと思う。鰻は狩野川の河畔の寿々木であった。
 しかし適当な酒の肴がない時は、皿に味噌をぬり火鉢で半焦がしにしたものや土佐のうるめ鰯の丸干しやタンザクに大根、キュウリを切り味噌をつけたものだけでも差し支えない、その様な嗜好にある意味での父のコダワリのない健全さを感じられる。
 教師として当然教える立場が多いが、研究に当たって未知の、或いは各々の 立場から、教えを請う事もしばしばで後輩たちにも実に謙虚な姿勢で対応して新しい知見を得ることが熱心で亦知友を拡げることが出来たと思われる。  それにしてもあれだけの大著を一人で、何十年心血を注いだと言っても当時の薄給の中学教師としてよく研究費用を賄い得たと考えられる。今その収支の実際を洗い出すことは出来ないが、父は研究のための正倉院御物の年一回の拝観や方々の社寺宝物等の見学、画材のためのスケッチ旅行等も多く、私の沼中卒業の翌年には嘱託教師であり、在学中も(多分もっと前から)しばしば給料の前借を相談する父と母の話は何回か耳にした。定収入は家族の生活、私の高校、大学の学費等で手一杯の状態であった筈で、正に母のやりくりは大変であったと思われる。
 当初から県の研究への助成金を長く頂き、香陵同窓会員有志の多勢の方々からの援助、父の作品の画を藤井さん、矢田さん、赤井さん等の尽力になる頒布会等を通 じて買って頂くこと等が積み重なって賄われた。亦最後には多量の絹織物、各地から集める染色の原料草木の集買等には後年の刊行書の買い上げ予約金等々おそらく当時の金額で一千万〜二千万が投入されたと思います。 香稜同窓会の物心にわたる協力が得られて初めて成ったと私には考えられます。
 父の美校卒論に当たる日本画の作品は天平時代の官女群を描いたもので今も芸大の画集の中に残っている由だが、土佐の各地や沼津、箱根、伊豆の山が主体の風景画が多い。父に誘われてお伴をしたスケッチの小旅行も総て山の風景で四国縦断の土讃線工事中のおおぼけ大歩危・こぼけ小歩危を7日かけて高知から丸亀まで歩いたのは沼中3年の夏であった。桜樹にしても父の愛し懐かしんだのは渋味の 山桜で先年土佐の山村を訪れたら、父の希望で山桜の苗木数本を送った苦心談を聞いた。旧沼中の階段教室の辺りに空襲の被爆前までは育っていた筈である。
 二瀬川の家も父が好きな滋味な樹々が何本もあり父子二人で一日がかりで植え替え作業に汗を流したことも記憶に深い。箱根屋醤油の和田さんに頂いた貴重なヒマラヤのシャクナゲは見事な大木にまでなって花も多く剪定は全部父の手であった。
 芹沢光治良氏から何度も父と併せて懐かしみ讃えて頂いた母は大の芹沢文学愛読者であり、何百と数える中学卒業生の中で芹沢さんは何時も変わらず最高に礼儀を弁え所謂最も行儀のいい着物に袴姿の訪問客であった事を晩年まで良く話していた。その母は岡山・倉敷の生まれで、小学入学前に姉と共に両親を失って孤児となり、学校前から倉敷大原家で子守をしたと言う。小学校卒業後、東京で看護婦と、産婆の勉強をし、東京で某大家の逗子の別 宅に住み込みで夫人の介護をし大変可愛がられ、数年後、その家の紹介で館林中学の教諭前田千寸との婚姻となったと母から聞いている。館林の借家が新居となったが、これが作家田山花袋の住んでいた家であったことを父から聞いた。
  人を愛し、自然を愛し、自らを大切に生きた父前田千寸は明治の気骨と大正のロマンを其の侭感じさせられ、私は人間性溢れる父を刻み込んで生きたいと念願しつつ90歳を迎えようとしている。
 明治45年秋館林で生まれた私の姉天野紫都子も私以上の前田千寸の大のファンであり、88歳を前に逝って既に長いが若しまだ生きておれば父への賛辞に言葉を失うことであろう。根っからの父親っ子であった。

  美術館への謝辞
 末尾になって終わったが、かねて私は、わたしの敬愛して止まない単に私の父ということではない前田千寸の残した「日本の色彩 文化史」という業績と、芹沢さんや、井上さんに描かれた人間らしい人間を、後世の心ある人に想い留めて貰うことを願っていたが、この度の沼津市庄司美術館の企画を伺い正に欣喜して老生の出来るご協力をさせて頂きたいと考えております。
 美術館職員等の誠意と熱意によってこの展示が進められていることに私は思い残すことなしと感謝しております。
 前田千寸の資料日誌の中に荻生氏が正月の賀詞に訪問された記録を発見して奇縁、快縁を覚えます。




前田千寸先生の思い出      芝  章  沼津東高等学校昭和27年卒

お隣のもの知りのおじさん
 昭和一七年、私が小学校三年生の時だった。お隣に住んでおられた前田千寸先生が、その前年に沼津へ引っ越してきたばかりの私に声をかけて千本浜へ連れ出してくださった。大層博学の先生だったから、おそらくさまざまなお話を伺ったのだと思うが、よく覚えているのは、伊豆の山々のひとつひとつの名前を教えてくださったことである。特に寝釈迦山(連山)を指さして、「あれが鼻で、あれが眉で、あの高いところが臍だ」というご説明がとても面 白かった。できることなら西北の方向、遠くに見える南アルプスの各峰の名前を聞いておけばよかったと思っている。日本の三千メートルを超える山の半数が南アルプスに集中しているのだから。 ただし、さすがの先生もそこまではご存じなかったかもしれない。

西洋美術への関心を喚起してくれた先生
 昭和二十四年、沼津東高一年生の時、私は前田先生による放課後の特別講座「西洋美術史」を受講した。対象は一年生から三年生までの希望者約二十人ほどだった。ちなみに成績は出席点のみで、合格なら二単位 を頂戴することができた。この講座で西洋美術の大きな流れを理解できたため、それぞれの西洋絵画や彫刻の位 置付けが明確になり、西洋美術への理解と関心が大きく高まった。その後、大学生・社会人生活を通 じて忙しさにまぎれて美術館などを訪れる機会はほとんどなかったが、五十五才を過ぎてたまたま上野に本社がある企業の監査役に就任したのを機会に、上野を中心とする美術館めぐりが私の何よりの楽しみになつた。幸い秘書課の若いお嬢さんたちがお付き合いしてくれることが多かった。もっとも大方のお嬢さんたちの関心は、美術鑑賞後の食事とカラオケのほうにあったと思っている。  
 前田先生のお話の中で印象的だったのはバルビゾン派のお話である。特に「カミーユ・コローの、森の中でナンフが踊っているような絵が好きだ」と、画集を回覧されたのを記憶している。ニンフでなくナンフとフランス語発音だったのも、妙に覚えている。    
 今、私の机の目の前に掛かっている絵もカミーユ・コローの風景画である。残念ながら、ここで描き入れられているのは農民であってナンフではない。


色彩の研究に没頭する研究者
 昭和三十〜三十一年、大学四年生の時、私は東京での三年間の下宿生活にひとまずピリオドを打ち、沼津の実家で両親・姉・兄と一緒に生活することにした。卒業するとおそらく東京に就職することになり、そうなれば繁繁と沼津へ帰って家族に会うことができないだろうと考えたためである。そして大学四年の授業を受けるために、週二回沼津から東京へ通 うことにしたのである。  
 その頃前田先生は、念願のテーマである「色彩の研究」のひとつの仕上げの時期に入っておられ、原料となる植物を鍋で煮て布を染めあげるという繰り返し作業が続いていたようである。その匂い(時には悪臭)が、たびたび隣の我が家にもかなり強烈に漂ってきた記憶がある。私がしばらく沼津の我が家を離れていたため、特に感受性が強くなっていたのかもしれない。この話を、つい最近同窓会のある会合で先生のご令息の薫さんにしたところ、それは大変ご迷惑をかけましたと頭を下げられ、五十年近くも経った今では笑い話ですねと話しあったものである。  
 先生の色彩研究の最初の集大成「むらさきくさ」が出版されたのは、昭和三十一年四月のことだった。